1949年9月17日、楊虎城(よう・こじょう)が蒋介石の密命で殺害された。享年56歳だった。
楊虎城は中国の軍人。張学良とともに「西安事件」を主導し、蒋介石を監禁した人物として知られる。1893年生まれ、陝西省の出身。
若い頃辛亥革命に参加し、1924年に中国国民党に入党した。国共内戦が激化すると、楊虎城は陝西綏靖公署主任に任じられ、共産党軍への攻撃を担当した。
満州事変以降、故郷の東北を追われた張学良は蒋介石の命で西安を本拠に活動。地元出身の楊虎城と知り合った。1935年8月1日、共産党が「八・一宣言」を発表し内戦停止を呼びかけた。張学良と楊虎城は共産党に接触。2人は共産党攻撃を控えるようになり、共産党攻撃を督促するため西安を訪れた蒋介石らを36年12月12日に監禁。内戦停止など8項目を要求して一致抗日を迫った(西安事件)。
事件発生後に西安を訪れた周恩来ら共産党代表との交渉で、蒋介石は署名を拒んだが、「8項目に合意する。約束は守る」と述べ、25日に釈放された。この事件をきっかけに国民党と共産党は二度目の「国共合作」へと進んだ。
蒋介石は一環して共産党を敵視していたため、張学良と楊虎城が裏切り者として処刑される可能性も大きかった。しかし2人は蒋介石の支配下にとどまった。
事件の結果、楊虎城は軍の実権を取り上げられ、蒋介石の命令で「欧州視察」として出国。しかし国外でも国民党の現状を批判しつづけた。37年の盧溝橋事件で日中戦争が本格化すると帰国するが、家族ともに捕らえられた。46年には毛沢東が蒋介石に対し楊虎城の釈放を求めたが、蒋介石はこれを拒否、その後も釈放を阻止した。
日中戦争勝利後、46年に国共内戦が再開。最初は優勢だった国民党軍だが、戦況が一変し、共産党軍が攻勢に転じた。当時、楊虎城は重慶の中美合作所(国民党政府とアメリカが設置した政治犯収容所)に収容されていたが、重慶陥落も時間の問題となった49年9月17日、幼い娘と秘書夫妻、警護兵などと共に、蒋介石の密命を受けた工作員により計8人が殺害された。
張学良は西安事件後に裁判にかけられ、50年間の軟禁生活を余儀なくされた。1990年に名誉回復され、晩年はハワイで過ごし、2001年に100歳で亡くなった。蒋介石が張学良と楊虎城に対する扱いを変えた理由は、歴史上の謎として残されている。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)
■今日は何の日 2006年〓月〓日掲載 ・1894年:黄海海戦…艦隊決戦で日清戦争の日本勝利がほぼ確定 |