947年1月10日、遼の太宗、耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)が後晋を滅ぼした。 耶律堯骨(902−947年)は、遼の第2代皇帝。建国者である耶律阿保機の次子。
遼は、現在の内モンゴル東部を拠点としたキタイ(契丹)族が建てた王朝。907年に唐が滅亡すると同時に耶律阿保機(やりつ あほぎ)がキタイ8部族の長となり、916年に中国風の王朝を築いた。当初の国号は大契丹国。阿保機の死後、927年に耶律堯骨が後継者に指名され即位した。
一方、長城以南では唐の滅亡後、華北などで後梁、後唐、後晋、後漢、後周の5つの王朝が興亡、中国南部は10の国が次々に乱立。いわゆる「五代十国時代」を迎えた。
中国北部で成立した後晋は、前代の後唐を滅ぼす際、遼の耶律堯骨に援軍と引き換えに「燕雲十六州」と呼ばれる現在の河北省北部、北京市、山西省北部一帯を割譲した経緯があり、実質的に遼の傀儡政権だった。
燕雲十六州は、長城以南の「内地」に位置した。堯骨は、漢人と契丹人を分けて統治する制度定め、同地を南進のための橋頭堡として整備。後晋が遼からの離反を図る動きを見せたのを口実に攻め滅ぼした。
耶律堯骨はその後しばらく開封にとどまった。しかし周辺各地で契丹人が漢人に対して行った物資略奪(「打草穀」と呼ばれる)への反抗が絶えず、統治が乱れた。このため堯骨は北方へ帰還しようとしたが、その途上にで病没した。
契丹の撤退後、後晋の領土は同王朝の武将だった劉知遠が受け継ぎ、後漢王朝を開いた。しかし、燕雲十六州は遼の支配下にとどまった。
キタイはモンゴル系民族と考えられている。1125年までキタイ民族の「遼」は中国北部を支配したので、モンゴル語でキタイの複数形の「キタッド」を語源とする「ヒャタッド」が「中国」、「中国人」を表すようになった。ロシア語の「キタイスキー」も同語源。
また、マルコ・ポーロ作とされる東方見聞録は中国を「カタイ」と紹介。同語は英語などで中国を表す雅語「キャセイ」に転じ、香港に本社を置く航空会社、キャセイ・パシフィックの社名にもなった。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)
■今日は何の日 2007年1月10日掲載 ・1946年:国共停戦協定が成立…米国の仲裁で実現、全面戦争までわずか半年の平和。 |